仙石浩明の日記

2007 : February

2007年2月19日

キャリアにおける「鶏と卵」 ── 「卵」を後回しにして欲しくない hatena_b

私は「やりたいことを仕事にすべき」と常日頃から主張しているのですが、 自分自身のことを振返ると、 必ずしも「やりたいこと」そのものズバリを 最初からやっていたわけではないことに気づきます。

「鶏がさきか、卵がさきかの議論になっちゃうんだけど」なんて枕詞があるが、 こと20代のキャリアにおいては 「まず目の前の仕事で最高の成果をだすことが"さき"で、 自分がやりたいと思う仕事をおっかけるのは"あと"」というのは 私の中では確信に近い。

確かに、何をやるにしても最初は素人であるはずで、 ずぶの素人が「この仕事をやりたい」と言ったところで、 任せてもらえることはレアケースでしょう。 仮に任せてもらえたとしても、 初めてやる仕事で成果を出せるとは限りません。

私は学校を卒業後、某大企業の研究所に就職し、 遺伝的アルゴリズムの研究に取組みました。 当時は (今も?) 大企業の研究所というのは人気職種で、 今から思えば「やりたいこと」というよりは 「人気の職種だから」やってみたいという思いの方が 強かったような気がします。

もちろん嫌々仕事 (研究) をしていたわけではないのですが、 仕事の合間を見つけては、 本業そっちのけで職場のイントラネット環境の整備に没頭してしまいました。 当時はまだ「イントラネット」という言葉すら生まれていない時代で、 何をするにもいちいち不便なネットワーク環境だったので、 いろいろ改善しようと思ったわけですが、 次第にネットワークの方が面白く感じるようになってしまいました。

入社当時に配属された部署というのは正直私があまり関心がある仕事ではなかったが、 当時はまだ"ひよっこ"という意識が強かったので、 とにかく結果をだすことに専念をした。
(中略)
どちらかというと目の前にある仕事をこなし、 そこで結果をだすのが精一杯で、 自分の関心が本当にどこにあるのかということを真剣に考える余裕も正直なく、 とにかくアサインされたプロジェクトで結果をだすことにがむしゃらになった。
同ページから引用

私の場合、配属された部署というのは関心がある仕事だったのですが、 もっと関心のある分野を見つけてしまったため、 本業 (目の前にある仕事) がおろそかになった、という感じでしょうか。 もしあのとき、 「アサインされた仕事で結果をだすことにがむしゃらになって」いたら、 本当に自分に向いていることを見つけ損なっていたのかも知れません。

確かに、他に熱中できることがなければ、 目の前の「本業」にがむしゃらになって取組むことも重要だとは思うのですが、 自分が本当は何に向いているのか、 いろいろ「かじってみる」余裕は持っていて欲しいと思うのです。

プロ野球選手を目指す子供に対して、 「野球を頑張るのはいいけど勉強も忘れずにね」というような忠告なら有用だと思う。 だけど、「プロ野球選手が本当の自分のゴールかどうかなんてわからないんだから、 まずは(アサインされた)目の前のテストで100点を取りなさい。 野球をするのはそれからだ」とは言わないでしょう?

本業以外に熱中できる新分野を見つけた部下に対し、 「新分野を頑張るのはいいけど本業も忘れずにね」という忠告はするけど、 その新分野への取組みも大いに応援する、 KLab(株)はそんな会社でありたいと思っています。 勤務時間の 10% は本業以外のことを好き勝手にやっていい、 もし見込みが出てきて周囲から認められるレベルになったら、 それを本業にしてしまってもいい、という「どぶろく制度」を作ったのも、 熱中できることを見つけるチャンスを逃して欲しくない、という思いからです。

キャリアは偶然によって作られるものだと私も思う。 なので、その偶然をどう活かすかというのは非常に大切になってくる。 でも「偶然のレベル」と「自分のレベル」は等価なので、 偶然を活かす良いスパイラルを生み出すためには、 まず自分のレベルを上げないと始まらない。 なので、今ある仕事の中で自分のレベルを上げることを第一に考えるべきです。

確かにその通りなのですが、 「偶然のレベル」を引き上げることは、 個人一人一人が自身のレベルを引き上げることによってだけでなく、 「偶然」を起りやすくする環境を会社が整えることによっても可能だと思いますし、 それこそが技術者のための技術会社の存在意義なのではないかと思います。

Filed under: 元CTO の日記,技術者の成長 — hiroaki_sengoku @ 09:46
2007年2月9日

組織を強くする技術の伝え方 hatena_b

ふと立ち寄った本屋で、たまたま手にした本:

プログラミングでメシが食えるか!?
―成功するプログラマーの技術と仕事術 (単行本)
小俣 光之 (著)

を読んでみて驚いた。 私がプログラミングについて漠然と考えていたことを、 とてもよく整理した形で説明している。 ふだん私はこの手のコンピュータ関連「読み物」をほとんど読まないのだが、 書いてあることにいちいち共感してしまって、 そのまま一気に読んでしまった。

プログラミングに関して、ここまで私と考えが似通っている本を 今まで読んだことがなかったので、 著者の小俣さんにメールを送ったところ程無く返信があり、 直接お会いして色々お話することができた

メールの中で小俣さん曰く、 「本書は批判的なコメントが多い中、共感いただけて本当にうれしいです」。 例えば Amazon のカスタマーレビューには、

内容が古すぎます, 2007/1/29
この本の前半はプログラミングスキルの説明をしているのですが、 いかんせん内容が古すぎます。
(中略)
それと本書では複数の開発言語を勉強することを 時間のムダであるかのように書かれていますが、これは大きな誤りです。 優れたプログラムを書くには多くのプログラミング言語を理解し、 その言語に合わせたプログラミングを行なわなければなりません。
タイトルに惹かれて本書を買いましたがその答えはどこにも書かれていませんでした。 まさか最後の章に書かれている「固有技術を磨く」が答えなんでしょうか? 1つの技術に固執すると、その技術が使われなくなったタイミングでメシが食えなくなります。
全体的にがっかりな内容です。

という批判が載っている。 まあ、誰しも自分が考えたいようにしか考えないものだし、 自身の考えが否定されるような本に対しては、 強く反発するのも仕方がないところだと思う。 私自身、私のブログに対し次のような批判的なコメントをもらったことがある。

3. Posted by 20代練習生    2006年07月07日 06:37
こういう記事は老害でしかないと思うんですが。
(中略)
昨今の情報が過剰な状況では、筋道立てて何かを学ぶなんて不可能です。 というか系統立てて学ぶなんて愚かなことです。
あらゆる分野でコミュニティが確立されていて、 何か疑問や問題点があってもそこへポストすれば即座に解決可能です。
こういう時代では、芯の通った骨太で系統的な知識よりも、 断片的で、それ自体では応用も利かないようなぽつぽつとした知識を 多くもっていることの方が価値があると思います。

「優れたプログラムを書くには多くのプログラミング言語を理解し、 その言語に合わせたプログラミングを行なわなければならない」とか、 「断片的な知識を多くもっている方が価値がある」などと思い込んでいる人に、 「その考え方は間違っている」なんて言ってもよりいっそう反発されるだけだし、 そもそも道を誤ったエンジニアを救うよりは、 将来伸びる素質を持ったエンジニアを育てる方が楽しいわけで、 間違った考え方を正してやる義理はないとは思う。

しかしながら、間違いを正してやることにより 伸びる可能性が出てくる人であれば話は別である。 また、その可能性が出てくる人というのが 自分の部下だったり一緒に仕事をする仲間だったりすればなおさらだろう。 というわけで、

組織を強くする技術の伝え方 (新書)
畑村 洋太郎 (著)

を読んだ。「技術は時代とともにダイナミックに変化するが、 その本質部分がきちんと伝わらないと、 大きな変化に対応ができない。 だからこそ『技術を伝える』ことについて徹底的に考え尽すことが必要」と 本書は説く。大変感銘を受けた。特に

技術というのは本来、「伝えるもの」ではなく「伝わるもの」なのです。
(中略)
伝える側が最も力を注ぐべきことは、 伝える側の立場で考えた「伝える方法」を充実させることではありません。 本当に大切なのは、 伝えられる相手の側の立場で考えた「伝わる状態」をいかにつくるかなのです。
第2章 伝えることの誤解 53ページから引用

は、「技術を伝える」ことの本質を見事に言い表しているように思う。 間違った考え方を正してやるには、 まず相手の頭の中に「伝わる状態」をつくらねばならない。

何かを若い人たちに伝えようとしたときに、 「内容が古すぎる」とか「老害」だとか反発する人はいつの時代にもいる。 もちろん古くなって伝えるに値しなくなるものもあるが、 たとえ日進月歩のコンピュータ/インターネットの世界であっても 不易普遍なものはある。 そういったものを「古い」という理由だけで学ぶに値しないと思い込んでいる輩は、 畑村氏が言うところの「偽ベテラン」ないし「偽ベテラン予備軍」なのであろう。

長年やっていれば、誰でもそれなりの技術を習得できます。 極端なことを言うと、 どんなに能力がない人でも そのときの自分の状態にあった程度のことを実践していけば、 その積み重ねの中でやがてはなんらかの技術を習得することができます。
しかし、このようなものは本来、技術の伝達とはいえません。 これを技術の習得というのも不適切で、 ただ単に技術に慣れただけというのが正確な言い方でしょう。
じつはこのように、 経験と慣れだけで技術を獲得してきた人は世の中にたくさんいます。 私はこういう人を「偽ベテラン」と呼んでいます
終章 技術の伝達と個人の成長 170ページから引用

どんどん移り変わる表層的な技術や、 応用は効かないが当座の役には立つ断片的な知識は、 検索一発で探し当てられる便利な世の中だからこそ、 「技術の伝達」の重要性はますます高まっているのだと思う。

Filed under: 技術者の成長 — hiroaki_sengoku @ 07:17