自己啓発

このエントリーを含むブックマーク 2008年04月07日

分譲マンション (あるいは一戸建) を (ローンで) 購入するのと、 賃貸マンションを借りる (賃借) のと、どちらが得か? という比較の話をよく聞く。 大抵は、ケース・バイ・ケースで片付けてしまうか、 「購入派 VS 賃貸派」などと個人の価値観に帰着させてしまうことが 多いようである。 例えば、 「ローンも家賃も月々の支払いは似たようなものであるが、 購入の場合はローンを完済すれば資産になるのに対し、 借りる場合は家賃を永遠に払い続けなければならない。 一方、 購入の場合は地価が下がったり住環境の変化などのリスク要因もあるから、 購入が得とも限らない」等々...

本当に、ケース・バイ・ケースあるいは価値観の問題なのだろうか?

まず注意しておきたいのは、 「購入」と「賃借」は、対立概念ではないということ。 当たり前の話だが、 「購入」の反対は「売却」であり、 「賃借」の反対は「賃貸」である。 マンションを購入しても、 必ずしもそこに住まなければならないわけではない (税制などを考えれば住む方が得であるケースも多いが)。 購入するにしても借りるにしても、 どこかに「住む」はずであるから、 共通部分である「住む」は除外して比較を行なうべきであろう。

どうやって「住む」を除外したらよいか?

マンションを購入して (他者に賃貸するのではなく) 自らそこに住む場合、 自分自身に対して「賃貸」したと考えればよい。 つまり「賃借人」である自分が、「大家」である自分に家賃を払ってそこに住む、 と考えるわけである。 このように考えれば、 「自宅としてマンションを買う」という行為は、 「マンションを買って (自分自身に) 賃貸」という行為 (つまり不動産投資) と、 「マンションを賃借して住む」という行為に分解できる。

買う ⇒ 不動産投資 + (自分から)賃借して住む
借りる ⇒ (他人から)賃借して住む

このように考えれば、 「賃借して住む」の部分は両者に共通であるから除外して比較することができる。

つまり「買うか? 借りるか?」という比較は、
「不動産投資を行なうか? 行なわないか?」という比較になる。

4000万円の新築マンションを購入するとして、 頭金を800万円(購入価格の2割)、 残り3200万円を金利3%、 35年返済で借りるとした場合、 月々の返済額は12万3000円となる。 頭金800万円を加えた総返済額は約5970万円。 これに固定資産税、維持管理費等の支払いが約1700万円。 結局7670万円の支払いをして、マンションが自分の資産となるわけである。

ここで、 (自分自身に) 月額 12万3000円の家賃で賃貸すると考える。 もちろん家賃の額は任意に設定して構わないのであるが、 ここでは簡単化のため、 家賃をローンの月々の返済額と同額の 12万3000円に設定してみる。

4/19追記: 任意に設定して構わないといっても、 賃借人としての自分が「払ってもよい」と思える額であることが大前提である。 どーせ自分自身に払うのだからいくら高くても懐は痛まない、 などと考えてはいけない。 月々のローン返済額と同程度の家賃を払うくらいなら購入したほうがお得 (つまり 12万3000円以上だと払いたくない)、 と考える人が多数派であるようなので、 設定する家賃は月額 12万3000円を上限とすべきだろう。

すると、賃借人 (つまり自分) から払ってもらった家賃を、 そのままローンの支払いにあてることができて、 固定資産税と維持管理費等の支払いだけでマンションが自分の資産になるわけである。 つまり「大家」としての自分は、 頭金800万円と固定資産税と維持管理費等の1700万円の合計 2500万円だけで、 (35年後には) 4000万円のマンションを手にいれることができる。

おいしい話のように聞こえるだろうか?

もしこの話がおいしい話に聞こえるなら、 マンションは購入すべきという結論になるわけだが、 よく考えてみて欲しい。 まず、 35年後に 4000万円の価値をもっているかどうかは、 そのときのマンション相場次第である。

ここで考慮しなければならないのは、 「果たして地価が今後どのように変動していくか」である。 地価が毎年上昇し続ければマンションの資産価値も上がり続けるので問題ないが、 今の景気を考えると地価の上昇はしばらく期待できず 「地価はもう上がらない」という意見が多い。 正直そのあたりが誰にも明言できないところに 「買うか?借りるか?」の議論がいつの時代もされ、 結局「どっちなの?」に終始してしまうのである。
ここで地価が変動しないと仮定すると、35年後の資産価値は2510万円となる。

地価が変動しないと仮定すると、この話は 「頭金800万円と固定資産税と維持管理費等の1700万円の合計 2500万円で、 (35年後には) 2510万円の資産価値を持つマンションが手にはいる」 という話に変質してしまう。

おいしいと思えた話に影が差してこないだろうか?

とはいえ、 2510万円の資産価値を持つマンションが (35年後とはいえ) 手に入るのだし、 もしかしたら地価が上昇してマンション相場が大幅に値上がりするかも知れない。 先行きが見えない株に投資するよりは、 大化けするかもしれない「不動産」に投資したい、 と判断する人もいるかもしれない。

賃貸の場合は頭金800万円と税金等の1700万円も不要なので、 購入しなければ2500万円の現金資産が残り、 結局は地価が変動しなければどちらも同じなのである。

「結局は地価が変動しなければどちらも同じ」だから、 ケース・バイ・ケースあるいは価値観の問題ということなのだろうか?

実はそうはならない。

なぜなら、 「頭金800万円と固定資産税と維持管理費等の1700万円の合計 2500万円で、 (35年後には) 2510万円の資産価値を持つマンションが手にはいる」 という理解は間違っているからだ。

支払額が合計 2500万円と思った人は、 800万円を (例えば) 銀行に預けておけば、 (低金利の昨今とはいえ) 35年もたてばそれなりの利息がつくということを忘れている。 毎年払い続ける固定資産税と維持管理費等だって、 総額 1700万円も払うわけだから、 同じ金額を 35年間もかけて積み立てていけば 利息が加算されて 1700万円を大きく上回る額になる。

不動産投資を行なうか、行なわないか、という比較をするのであれば、 不動産投資を行なわない場合に 同じ元手 (総額 2500万円) を 他の投資先へ振り向けた時の収益を含めて考慮しなければ、 フェアな比較とは言えないだろう。 他への投資でどのくらいの利回りが期待できるかは投資先に依存するが、 ここでは簡単化のため、 (ローン金利と同率の) 3% の利回りが期待できると仮定してみる。

最初に 800万円を投資し、 1500万円を毎年均等に (つまり毎年 49万円ずつ) 追加投資して、 3% の利回りがあると仮定すると、 35年で 5214万円にもなる。

つまり、

新築価格が 4000万円のマンションを 35年ローンで買ってもいいのは、
ローン完済時に 5214万円以上で売却することが期待できる場合に限られる。

「土地神話」が崩れた今、 マンションを買うという行為は、 「投資」以外のなにものでもない。 そして、 「個人の投資は必ず余裕資金ですべき」という鉄則は なにも「株投資」の場合だけに当てはまるものではなく、 どんな投資についても当てはまる金言である。

結構な高金利で借金して得たお金で投資する人がいたらどう思うだろうか? 「借金して得たお金」というのは 「余裕資金」から最もかけ離れた資金と言えるだろう。 そんな投資はやめておけ、と誰しも思うのではなかろうか?

しかしながら多くの人が行なっている 「ローン組んでマンションを買う」という行為は、 「借金して得たお金で投資する」という行為となんら変わらないのである。

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hiroaki_sengoku at 08:30|この記事のURLComments(8)TrackBack(11)
このエントリーを含むブックマーク 2007年08月09日

人の「意識」は心の中心ではなく、脳の様々な活動のロガーに過ぎなかった!」で、

脳はなぜ「心」を作ったのか
「私」の謎を解く受動意識仮説
前野 隆司 著

を紹介したら、前野先生の最新作である次の本を頂いた:

脳の中の「私」はなぜ見つからないのか?
ロボティクス研究者が見た脳と心の思想史 (ハードカバー)
前野 隆司 著

頂いたから言うのではないが (^^;)、この本は素晴らしい。

なにが素晴らしいかというと、

第5章 哲学者との対話
1 現象学
斎藤慶典 (慶応義塾大学文学部哲学科教授)
2 生態学的心理学
河野哲也 (玉川大学文学部人間学部准教授)
目次から引用

といった感じで、第一線で活躍中の哲学者との対談を行なっている点。

「心」とは何かを探求するのは哲学者、思想家、 そして宗教家の専売だったわけであるが、 科学技術、特にコンピュータの発展にともなって、 情報科学や認知心理学、脳科学の分野からのアプローチが可能になった。 従来のアプローチである哲学と、 新しいアプローチである情報科学とが、 どのような位置関係にあるのか、 対談という形で明らかにしようとする本書は、 とても分かりやすいし、納得感がある。

そもそも、 脳が純粋に物理的な存在 (つまり霊魂とかは含まれていない) であると信じる限り、 「心」もまた物理現象として説明できる日が来るだろうことは疑いようがない。 そして、 オッカムの剃刀を進化論に適用すれば、 「意識」が受動的なものであることは必然の帰結だろう。 つまり、ヒトのみが「自由意志」を (極めて集中的な) 突然変異によって獲得したという (不自然な) 仮説は切り捨てるべきで、 「エピソード記憶」の能力が進化して 「意識」がより強固な「自我意識」へと進化したと考えるべきだろう。

進化の連続性を考えれば、 「意識」は決してヒト特有の特別な能力ではなく、 充分に進化した脳を持っている動物 (例えば霊長類) ならば、 少なくともヒトの赤ん坊と同程度の意識はあるということになる。 もっとも、赤ん坊にどの程度の意識があるのか、よくわからない (^^;) し、 さらに言えば、 ヒト特有の確固たる自我の意識が生まれるのは、 もっと成長してからのような気がする。 反復説 (個体発生は系統発生を繰り返す) を発生後にまで適用可能ならば、 ヒトと類縁の動物は、ヒトの子供と同程度の「自意識」を持っているのかも知れない。

ちなみに、ヒトの脳には一千億個ほどの脳細胞 (ニューロン) がある。 一千億個というと途方もない数のように思ったこともあったが、 いま私が使っているノート PC のハードディスクの容量が、 ちょうど一千億バイト (100GB) である ;-)。 もちろんただ単にデータを記憶しているだけのハードディスクと、 相互に信号を送受信できるニューロンとを単純に比較することはできないが、 ニューロンだって結線を変えようとすれば結構な時間がかかり、 おそらく大多数のニューロンはただ単に過去の記憶を保持しているだけだろうから、 「意識」という機能の「実装」が想像もつかないほど複雑であると考えるのは 無理がある。

だから少なくとも私にとって「受動意識仮説」は、 「霊魂が存在しない仮説」と同じくらい「確からしい」仮説なのであり、 前野先生が高らかに「受動意識仮説」の妥当性を主張し、 伝統的な宗教家の多くが信じている心身二元論を批判するのを読むと、 やや食傷気味になる。

同じような感覚は、ドーキンスの著作を読んでいても感じる。 もう宗教批判は充分だから、もっと発展的なことを考えようよ、 と言いたくなるのは私だけだろうか?

利己的な遺伝子 <増補新装版> (単行本)
リチャード・ドーキンス (著),
日高 敏隆 (翻訳), 岸 由二 (翻訳), 羽田 節子 (翻訳), 垂水 雄二 (翻訳)

というわけで、ややうんざりしながら 前野先生のチャーマーズ批判を読み進めていたのだが、 「第5章 哲学者との対話」に至って、 この本に対する私の評価は 180度転換した。 第1章〜第4章は、 工学者である前野先生の言葉で語った他の思想の説明であり批判であるのに対し、 第5章は哲学者の言葉で語った哲学者の思想の説明である。 しかも聞き手は前野先生という工学者である。

実は私は大学生のころ、哲学に興味を持って、 いろんな哲学書を読んでみたことがある。 しかしそのほとんどが、哲学者に対する説明か、 あるいは一般人に向けたものであった。 前者は難しすぎて理解できないし、 かといって後者は表層すぎて本質には程遠かった。 そんなわけで一度は哲学を理解するのを断念したのであるが、 本書における、 情報科学からの哲学へのアプローチと、 哲学者と工学者との対話によって、 私自身の哲学に対する理解が大いに進んだように思う。 難攻不落に思えた哲学が、 情報科学という「武器」を用いることによって、 攻略可能であるように思えてきたのである。



hiroaki_sengoku at 07:41|この記事のURLComments(1)TrackBack(0)
このエントリーを含むブックマーク 2006年12月26日

仮説: ロングテール戦略が格差社会を生む の検証の三回目 (全七回を予定)。

機会均等

「機会均等」には三つの種類がある。

  • 金持ちになるための機会
  • 貧乏にならないための機会
  • 貧困から脱出するための機会

一番目の「金持ちになるための機会」とは、 例えば「アメリカン ドリーム」のようなものである。 ほとんど全ての人は夢想することはあっても本気で目指そうとは思わない。 本気で目指さないのだから達成できなくても、それは当然だろう。 ほとんどの人が、そういった夢を達成できないからといって、 機会が均等でないことの理由にはならない。

二番目の「貧乏にならないための機会」とは、 「安定した生活」のようなものである。 機会なんかなくても、人並みの努力していれば人並みの生活を維持できると、 かつては信じられていた。 昨今の競争社会は、生活水準が悪くなったと感じる人が増えつつあることから、 努力しても報われない社会だと言う人がいる。 果たしてそうだろうか?

むしろ、「人並みの努力」で中流が維持できた時代が特異だったのではないか? 資本の本質は自己増殖である。 富は富を呼び、お金のないところからはどんどんお金が逃げていく。 もちろん富の再配分によって富の集中を緩和するにしても、 鎖国でもしない限りお金の流れは止められない。 ではなぜ '60年代から '80年代にかけて、 多くの人が中流でいられた (一億総中流) かといえば、 社会全体が成長したから。 何年も2桁成長が続く高度成長期だったからこその現象だろう。

昔、「ドラえもん」の漫画に、「ボーナス1024倍」という話があった。 お金を銀行に預けておくと 10年で約二倍になるから、 100年預けておくと 1024倍になる。 ボーナスを銀行に預けてタイムマシンで 100年後におろしに行く、 という話である。 当時はなんとも思わなかったが、 今から考えると 10年で預金が倍になるなんてのは異常である。 もちろん、実質成長率はそこまで高くないにしても、 今から考えると常軌を逸脱した成長率だった。 しかも 100年後に同じ銀行が存続していることになんの疑いも持たなかった、 というのも今から思えばかなり新鮮な発想である。

高度成長期のような例外的な時代でなければ、 「貧乏にならない」ことは容易ではない。 「人並みの努力」だけでなく、 「機会」を見つけ、それを生かすことが必要である。

三番目の「貧困から脱出するための機会」とは、 「健康で文化的な最低限度の生活」のようなものである。 NHK スペシャル 「ワーキングプア II」の 副題は「努力すれば抜け出せますか」であったが、 「最低限度の生活」は憲法で保証されている権利なのであるから、 努力して獲得すべき性質のものではない。 必要なのは機会均等ではなく、無条件の保証であろう。

というわけで、一番重要なのは二番目の機会均等、 「貧乏にならないための機会」の平等である。 「貧乏にならないため」というのが後ろ向きなので、 多くの人がその「機会」をあまり重視していないようだ。 世の中には、この「機会」はいくらでも転がっているのに 多くの人がその機会をつかもうとしない。 だから資本の論理に立ち向かうことなしに、 ずるずると押し流されてしまっている。

しかも、多くの人はその現実を直視したがらない。 自分達より下に「ワーキングプア」がいるから自分達は「下層」じゃないと 思い込みたがる。 そういう人たちに限って、 「ワーキングプアは自己責任だ」などという。 「自己責任」の元、ずるずると貧乏に落ちていっているのは自分達自身だというのに...

政府の『国民生活に関する世論調査』の中で 「生活程度」についての意識調査の結果を見る限り、 バブル崩壊後も日本国民から一億総中流の意識は抜けていない。 「生活の程度は、世間一般から見て、どの程度と思うか?」という 質問に対する回答で、 「下」と答えた者の割合は、 1960年代から2004年に至るすべての年の調査において、1割以下である。

資本の論理に立ち向かう手段はただ一つ、 「資産を築く」ことである。 ここで言う資産とは、何も金融資産だけに限らない。 「将来の収入をもたらすもの」全てが資産であり、 「将来の支出をもたらすもの」全てが負債である。 そして、 資産の要件は「希少性」と「換金性/収益性」である。 最も効率的な資産である「能力」を例にとれば、 「普通の人にはできないことができる」というのが希少性であり、 「その能力に価値を感じてくれる人を見つける」ことができれば換金できる。

「人並みの能力」に希少性はない。 いつでも代わりの人を見つけられるからだ。 代替可能な人材 (replaceable resource) に支払われる賃金は、 下がることはあっても、上がることは稀である。 ベースアップなどというものは高度成長期のみに許された特異現象である。

では、他人より抜きん出た能力を身につける機会とは何か?

「20:80 の法則」 (パレートの法則) というものがある。 「売上の8割は、全従業員のうちの2割で生み出している」などの経験則が知られるが、 じゃ、その 2割の従業員だけでドリームチームを作れば、 すごい会社が作れるかというと残念ながらそうは問屋がおろさない。 「2割の従業員」がふたたび「20:80」に分かれてしまうのである。 精鋭チームを作ったつもりが、 そのチームの中の多数 (8割) は売上にあまり貢献しなくなってしまう。 逆に、ダメな従業員だけを集めたダメダメチームを作っても、 その中の 2割ほどは頭角を現し、チームを率いるようになる。

つまり能力を向上させる最良の方法は、 自分が上位 20% に入ることを目指せるような集団に属することである。 まさに「寧ろ鶏口となるも牛後となるなかれ」。 上位20% に入ることがどうしても無理なら、 それはその集団が向いていないということである。 牛後に甘んじるよりは思い切って飛び出すべきだろう。

機会均等を押し進めようとするなら、

  • 「再チャレンジ支援」より 「ニート部門
  • 「一斉授業」より「習熟度別指導」
  • 「普通科高校」より「専門高校」
  • 「男女共学」より「女子校」
  • 大企業で中間管理職を目指すより、ベンチャーで経営幹部を目指せ
  • 大企業の研究所で主管研究員を目指すより、ベンチャーで CTO を目指せ
  • 雇われプログラマで人月を換金するより、 世界を変えるオープン ソース ソフトウェアを目指せ

「貧乏にならないための機会」はいたるところで見つけられる。 見つけようとする意志さえあれば。



hiroaki_sengoku at 07:22|この記事のURLComments(2)TrackBack(2)
このエントリーを含むブックマーク 2006年08月25日

いま読んでいる本:

フェルマーの最終定理 (文庫)
サイモン シン 著

の中につぎの一節を見つけた (323 ページ):

大事なのは、どれだけ考え抜けるかです。 考えをはっきりさせようと紙に書く人もいますが、 それは必ずしも必要ではありません。 とくに、袋小路に入り込んでしまったり、 未解決の問題にぶつかったりしたときには、 定石になったような考え方は何の役にも立たないのです。 新しいアイディアにたどりつくためには、 長時間とてつもない集中力で問題に向かわなければならない。 その問題以外のことを考えてはいけない。 ただそれだけを考えるのです。 それから集中を解く。 すると、ふっとリラックスした瞬間が訪れます。 そのとき潜在意識が働いて、 新しい洞察が得られるのです。

ついにフェルマーの最終定理を証明したワイルズの言葉であるが、 「潜在意識が働いて、新しい洞察が得られる」という部分に大変共感を覚えた。 「どうやったら無意識の思考をより活性化させることができるか」 考え続けてきた私としては、 我が意を得たりの感がある。

どうすれば無意識の思考をより働かせられるか、 ワイルズは「長時間とてつもない集中力で問題に向かわなければならない」と 表現した。 私は「同時に考えよう (1)」で書いたように、 「日頃から深く考え続けているような事に関しては、 ひらめく頻度が高いように感じる。 おそらく無意識で考え続けているのだろう」と思う。 意識した思考を長時間続けることが必要、 という点で共通しているのが興味深い。

なぜ、無意識の思考を働かせるには、 長時間の意識した思考が必要なのだろう?

なぜ、新しい洞察は、 意識した思考によってではなく、 無意識の思考によって得られるのだろう?

自身の脳の中で何が起っているのか、 そもそも無意識の思考とは何なのか? それが分かれば、 もっと「頭を使う」ことができるかもしれないし、 また自らの能力の限界がどのあたりにあるのか知ることも可能だろう。 ホフスタッターが言うように、 おそらく自由意思は錯覚なのだろう。 受動意識仮説は 「不思議の環」をとてもうまく説明する。

ゲーデル,エッシャー,バッハ―あるいは不思議の環 (単行本)
ダグラス・R・ホフスタッター 著

とはいえ、 脳が自分自身の動作原理を理解する、 などということが本当に可能なのだろうか?
自己言及の環となってパラドックスに陥ったりしないのだろうか?

マインズ・アイ―コンピュータ時代の「心」と「私」〈下〉 (単行本)
ダグラス・R・ホフスタッター/ダニエル・C・デネット 編著

の中の、クリストファー・チャーニアクの短編 「宇宙の謎とその解決」(第17章) に出てくる 「謎の昏睡」を、ふと思い出した。



hiroaki_sengoku at 08:27|この記事のURLComments(1)TrackBack(0)
このエントリーを含むブックマーク 2006年08月03日

唐突に何かを「ひらめく」という経験は誰しもあるだろう。 「ひらめき」が天から降ってくる、というのは考えにくいので、 意識はしていないものの何らかの思考が脳の中で行なわれ、 その思考の結果が意識にのぼったとき、 「ひらめく」と考えるのが自然だろう。

この意識していない思考、すなわち「無意識の思考」を積極的に活用すれば、 同時に沢山のことを考えられる。 時間を効率的に使えるだけでなく、 自身の脳の中で何が起きているのか理解するきっかけになるのではないかと、 今まで考察を重ねてきた:

意識の「下」に、意識を支える広大な「無意識」がある、 というイメージで考え、 その無意識をもっと活用したい、という思いからいろいろ考えてきたわけであるが、 前野隆司氏のページを読んで、 文字通り天地が引っくり返ってしまった:

脳はなぜ『心』を作ったのか」から引用:

1つの面白い実験結果がある。 人が指を動かそうとするとき, 脳の中の,「動かそう」と意図する働きを担う部分と, 筋肉を動かそうと指令する運動神経が, どんなタイミングで活動するかを計測したカリフォルニア大のリベット博士の実験だ。 結果は実に意外だった。 筋肉を動かすための運動神経の指令は, 心が「動かそう」と意図する脳活動よりも,0.5秒も先だというのだ。 常識的に考えると,まず人の心の「意識」が「動かそう」と決断し, それにしたがって体が動くと予想されるのに,結果は何と逆なのだ。

そうだったのか! それで全て辻褄が合う!

人の「意識」とは, 心の中心にあってすべてをコントロールしているものではなくて, 人の心の「無意識」の部分がやったことを, 錯覚のように,あとで把握するための装置に過ぎない。

まさに、 地球が宇宙の中心で、太陽や星が周囲を回っていると思っていた人が、 地動説を聞かされたときの気分だった。 「無意識の思考」と「意識した思考」の二種類があるのではなく、 「無意識の思考」が全てだったとは。

「あとで把握するための装置」という説明は私にとって、 とても納得のいく考え方だ。 すなわち、無意識の思考は様々なことを「同時に考えている」が、 実際に何を考えていたか、ほとんど忘れてしまう。 ごくわずかな例外が、「意識にのぼった思考」、否、 「意識という記録装置」によって「すくいあげられた思考」ということなのだろう。

同様のことが「夢」にも見られる。 外部刺激が夢に影響を与えることがある。 例えば、目覚まし時計が鳴る音が、 夢の中で電話の呼び出し音として登場するなど。 しかし、因果律で考えれば、目覚まし時計が鳴ることが原因で、 夢の中で電話が鳴ることが結果であるはずだ。 なぜ、

  1. 夢の中で、何かをしているとき、
  2. 電話が鳴る音を聞き、
  3. 受話器を取り上げようと行動しているうちに、
  4. 目覚め、
  5. 目覚まし時計が鳴る音を聞く、

という順番になるのだろうか? 電話が鳴る前に何も夢を見ていないのならまだ理解できるが、 夢なりに脈絡があるシチュエーション (1) で電話が鳴る (2) のである。

どうして外部からの刺激 (2) が原因なのに、 それが結果となるような夢 (1) を「たまたま」見ることができるのか、 とても不思議だった。 私が考えた仮説は、 外部刺激を受けた一瞬のうちに、 夢の全て (1)〜(3) (電話が鳴る前の全ての状況を含む) を見て、 そして目覚める、というものだった。

「夢」とは、 寝ている間の無意識の思考の一部を「すくいあげた」ものである、 と考えれば辻褄が合う。 寝ている間、無意識の思考は勝手にいろいろなことを考えるが、 そのほとんどは忘れてしまう。 唯一例外的に覚えているのは、「夢」として意識したエピソードなのであろう。 だから、時系列でいうと、

  1. 様々な無意識の思考が進行中...
  2. 目覚まし時計が鳴る
  3. 目覚まし時計の音の刺激を受けて、無意識の思考「電話が鳴る」が進行する
  4. 目覚める
  5. 「電話が鳴る」思考が、「夢」として意識される

「意識」は元々、「無意識の思考」の後に来るものなので、 因果律的には矛盾がない。 つまり、電話が鳴る音が先で、目覚めるのが後、と 意識する (正確に言えば、そういう記憶が残る) のは錯覚に過ぎない。 意識とは元々そういうものなのだ。

意識とは、脳というコンピュータにおけるロガー (unix で言うところの syslog ;-) に過ぎないのだろう。 つまり、自由意思で何かをしようと決断し、何か行動を起こす、のではなく、 「決断して行動した」という「記憶」が残っている、ということなのだろう。

にわかには信じがたい (人によっては不快とさえ思うかも知れない) 説ではあるが、 「単純なものほど真実に近い」はずであり、 「意識」が「エピソード記憶」のためにある、 という説はとても単純であるように思われる。 ちょうど、「地動説」が (ガリレオの時代の人々にとっては) 信じがたい説であったが、 惑星の見かけの動きを単純に説明できたように。

さっそく前野隆司氏の著書:

脳はなぜ「心」を作ったのか
「私」の謎を解く受動意識仮説
前野 隆司 著

を注文した。 将来のロボットは、本当に心を持つことができるようになるのだろうか?



hiroaki_sengoku at 09:33|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)
このエントリーを含むブックマーク 2006年07月06日

仮説: ロングテール戦略が格差社会を生む の検証の二回目 (全七回を予定)。

必要は発明の母

格差が広がりつつあることの根拠として、 親の資金力が子供にかけられる教育費に影響を与え、 子供の知能に影響する、という点があげられることがあるが、 果たしてそうだろうか? 確かに、お金に糸目をつけなければ いくらでも(授業料が)高い教育を受けさせることができる。 いくらデキの悪い子でも、 教えたぶんくらいは学力が上がるだろう。 しかしながら学力と知能は違う。 知能とは考える力であり、 いい学校にいけば身につけられる、 というものでもない。

学びて思わざれば則ち罔し

教わるだけで考えなければダメ、とは 論語以来くり返し言われ続けてきていることであるが、 考える訓練を学校で行なっているかと言えば、 なかなか心もとないものがある。 少なくとも私の経験だと、 考える習慣というのは学校とは関係のないところで身につけたような気がする。

どういうときに考える習慣が身についたかと言えば、 それは何か不足しているときである。 何か不便なことがある、 あるいは何かやりたいことがあるのだけどできない。 様々な制約をどうやって乗り越えようかと思案しているときに、 ついつい深く考え込む。

私が子供の頃というと高度成長期が終わった頃なので、 世の中にモノは溢れていた。 だから「不足」というとおこがましいのであるが、 当時は大量生産の時代なので、 少数のニーズは切り捨てられていた。 また、一億総白痴化の道具と言われたテレビも、 視聴率至上主義で少数のニーズには見向きもしていなかった。 つまり、 モノが溢れていると言っても画一的な製品ばかりだったし、 テレビなどのマスメディアが提供するサービスも画一的だった。 子供心にも、テレビはつまらない番組ばかりという印象を持った。

だから、好奇心旺盛な子供にとって工夫の余地はいたるところにあった。 買うより作った方が早い、そういう時代だったし、 小学生が電子工作に夢中になるのも珍しいことではなかった。 小学生でもいろいろ考えれば、 大人が驚くような成果を誇示することが可能だった。

「知」に対する渇望

プログラマを目指すのに適した時代、適していない時代」で書いたように、 私がプログラミングを学ぼうとした時代は制約や不足だらけだった。 そもそも入門書が無い。 少なくとも街の本屋にはコンピュータ関係の本は皆無だったし、 大阪梅田の 紀伊國屋書店旭屋書店でさえ、 コンピュータ関連書籍のコーナと言えば、せいぜい本棚一つくらいのものだった。 そんな希有な本棚を見つけ出せたとしても、 現在みたいに手取り足取り教えてくれる入門書なんてあるわけがなく、 大学の専門課程の学生向けの専門書を、 わずかな手がかりをもとに当時中学生だった私が読み解いていくのである。 まさに「読書百遍、意自ら通ず」の世界である。

そんな私が、初めて 八重洲ブックセンターを 訪れたときの感慨を理解して頂けるだろうか? 大げさに聞こえるだろうが、まさに砂漠で一杯の水を見つけたような気分だった。 一日中ここですごしたいと思ったものだ。

そうやってあちこちを探しまわって なんとか入手した 6502 のデータシートに記載されていた ニーモニック表を手がかりに、 まるで暗号解読をするように一命令づつその動作を想像し、 ついにはハンドアセンブルできるようになった時の達成感、 そしてハンドアセンブルして作ったバイナリコードを PET 2001 に打ち込んで実行し、 BASIC とはケタ違いのスピード ──まさに一瞬だった── を 目の当たりにしたときの感動は、 今でもありありと思い出すことができる。

「知」に対する渇望があるからこそ、 人は学び考えるのだろうと思う。 渇望するより先に与えられてしまったとしたら、 果たしてそれを学び考えようとするだろうか? 少なくとも若かった頃の私にそれができたかというと、 はなはだ自信がない。 いつでも学べると思うと、 「時間ができたら勉強したい」と 後回しにしてしまいそうな気がするのである。

不足(ニーズ)あるところに商機あり

多品種少量生産の時代になって久しい。 どんなニッチなニーズでも、 それを満たす製品ないしサービスがたちどころに開発されて提供される。 しかも IT技術によって全国津々浦々、どこにいてもその恩恵を受けられる。 やっとの思いで上京して八重洲ブックセンターに行く必要はないのである。 かゆいところに手が届くサービスが湯水のように提供されているのに、 どうして不足を感じることができるだろうか。 まして「渇望」とは無縁であろう。 世の中これだけ便利になってしまうと、 どうやって工夫すればいいのだろう? テレビが成し得なかった「一億総白痴化」を IT技術が達成してしまうのだろうか。

いや、そんなことはない、 インターネットの時代では、 消費者は単に消費するだけでなく、 自ら情報を発信していく、 生産者的かつプロフェッショナルな消費者 つまりプロシューマだ、 という人がいるかも知れない。 それはその通りだろう。 一部の消費者は「消費者」の枠に留まらず、 どんどん活躍の場を広げていくことだろう。 しかし、 そういった活躍をするのにも知能は必要である。 身近なところで考える訓練を積むことなく、 いきなりインターネットの世界に晒されては、 情報発信以前に、 あっと言う間に魑魅魍魎の餌食になるだろう。



hiroaki_sengoku at 06:29|この記事のURLComments(0)TrackBack(1)
このエントリーを含むブックマーク 2006年06月13日

仮説: ロングテール戦略が格差社会を生む の検証の一回目 (全七回を予定)。

究極の搾取

剰余価値が生まれて以来、 持つ者が持たざる者を 搾取する、 という構図は変わらない。

産業革命の時代、資産とは生産諸手段だった。

情報革命の今日、資産とは知能である。

頭のよい者が儲け、頭がよくない者は自覚のないままに搾取されている。 搾取と言っても、一人一人の額は微々たるものだから、気付かないのだろう。 たまに、「ボロ儲け」した奴はけしからん、と一部の金持ちが槍玉にあげられるが、 本当の金持ちは目立たないようにしているものだ。 一人一人に対する搾取は極めて少額でも、 情報技術の力によって集めれば莫大な額になる。

かつて「搾取」が持っていた暗いイメージはもはやない。 産業革命時代の搾取と違って、 今日の搾取には悲惨さは微塵もない。 かつての搾取はその悲惨さによって下層階級を固定していたが、 今日の搾取にはその力はない。 したがって産業革命時代と異なり、 今日は搾取それ自体が格差社会を生んでいるわけではない。

その一方で、富を集積する力は従来と変わらず圧倒的である。 しかも、産業革命時代の機械と比べると、 今日のコンピュータおよびネットワークは、 費用対効果が極めて高い。

圧倒的な効率で富を集積する力を持ち、 しかも負の側面をほとんど持たない。
まさに究極の搾取と呼ぶにふさわしいだろう。



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このエントリーを含むブックマーク 2006年06月08日

ふと思いついた仮説: ロングテール戦略が格差社会を生む を検証していこうと思う。

凡人が万馬券ばかり買って競馬場を去る社会」 「格差」 「過ぎたる機会は及ばざるがごとしか」など、
格差社会」というテーマが最近ホットであるようだ。 これらのブログを読んでいて違和感を感じた。
別の視点から「格差」を論ずることができるような気がしている。

論拠は次の 7 つ。

  1. 究極の搾取
  2. 必要は発明の母
  3. 機会均等
  4. 最も貴重な資産
  5. 習慣
  6. ラットレース
  7. 仮想下層社会

これだけで私が何が言いたいか分かってしまった人もいるかもしれないが (^^;)、 今後一つずつ掘り下げてみる予定。 ご意見を頂ければ、より突っ込んだ議論ができるかもしれない。



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このエントリーを含むブックマーク 2006年05月04日

アナロジーで考えると理解しやすいのはなぜだろう?

新しい事柄を、すでに理解している事柄に対応付けると、 分かったような気になりやすいので注意が必要であるが、 どこまで類似していて、 どこが違うかはっきり意識しながら考えるのであれば、 アナロジーは素早くモノゴトの本質を見極める方法として有効である。

すでに完全に理解している事柄というのは、 頭の中にその事柄に対応する「回路」が出来上がっていて、 無意識の思考で高速に考えることができる。 一方、初めて見聞きする新しい事柄は、 当然のことながら頭の中にはなにも準備ができていないから、 無意識の思考で考えるのは難しく、 意識した思考で考えることになる。つまり非常に遅い。

ここで、もし新しい事柄の一部でも、 無意識の思考で考えることができるのなら、 つまりすでに理解している事柄と似ている点があるのなら、 その部分は無意識の思考に任せることができて、 理解を加速することができるのではないか。 おそらく、これがアナロジーで考えるということなのだろうと思う。

このように考えていると、 マービン・ミンスキーのフレーム理論が思い起こされる。 つまり知識の枠組みができている事柄についての理解が速い、 ということと似ているが、 単なる知識の整理にとどまらず、 無意識の「自動化された」思考によって、 新しい事柄への理解が加速されるのではないか。

その一方で、過剰な類推をしてしまう、 つまり無意識への「丸投げ」をしてしまうのが、 「分かったつもり」であって、 頭の中の回路がどこまで正しいのか、 つまり「どこまで類似していて、どこが違うか」を検証する必要がある、 ということなのだろう。

その検証を、意識して行ってもよいのだが、 検証を無意識の思考で行うことができれば、 さらに強力だろう。 これは、比喩のやりすぎや、論理の誤謬を「直感で」感じられる人は、 検証を実際に無意識の思考で行っているのだろうと思う。



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このエントリーを含むブックマーク 2006年04月23日

他人の考え方を変えさせるのは難しい。 人は誰しも自分の考えたいように考えるわけで、 正論を述べたって相手を説得できるとは限らない。 たった一人の考え方を変えさせるのさえ困難なのだから、 まして組織の方向性を変えるなんて至難の業。

だから、組織を変えようとするのではなく、 他人を変えようとするのではなく、 まず自分を変えよう。 どんなに非の打ち所が無い人でも 反省すべき点の一つや二つあるわけで、 ふつうの人ならいくらでも反省すべき点はあるだろう。

まして周囲に不満を持っている人なら その分、反省すべき点も多いはず。 まさに人のふり見て我がふり直せ。 自分の都合のよいように、自分の考えたいように、 考えていないか省みよう。

他人の考え方を変えさせるのはそれからでも遅くない。 そもそも考え方を変えて欲しいと思うのは何のため?



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このエントリーを含むブックマーク 2006年04月21日

パケットの気持ちになって考える

むろん、パケット(といっても小包のことではなくて、IP パケットとかのことである) に 気持ちがあるわけではないが、 パケットからみたネットワークを無意識の思考で考えてみる、 という意味。

パケットの振る舞いを、意識した思考で考えていては、 あらゆる状況下での振る舞いを考えようとすると時間がかかりすぎる。 頭の中にネットワークのエミュレータを構築し、 無意識の思考でパケットをやりとりしてみればどうだろうか。

プログラムの気持ちになって考える

プログラムの視点、 ないしプログラムを実行する CPU の視点を、 無意識の思考で考えてみる。 プログラムを一ステップずつ意識した思考で追っていては、 いつになってもバグの原因に思い当たらないが、 頭の中にプログラムを思い描き、 無意識の思考で実行してみればバグの原因が「ひらめく」かもしれない。

将棋の駒の気持ちになって考える

寺尾創さまのコメントにある、 「直感で何通りか次々に解候補が無意識に浮かんでくる」というのは、 頭の中に将棋盤と駒があって、 無意識の思考で超高速に駒を動かしてあらゆる指し手を探索している、 ということなのか。 これが意識した思考だと、 あらゆる指し手を探索するには非現実的な時間がかかってしまうだろう。



hiroaki_sengoku at 18:37|この記事のURLComments(0)TrackBack(1)
このエントリーを含むブックマーク 2006年04月20日

相手の気持ちになって考える

相手のバックグランドを知る。 どういう生い立ちか、どういう環境で育ったか、何を学んだか。 バックグラウンドが分かれば、 物事をどうとらえ、どう考えるかが見えてくる。 あたかも自分の頭の中に、 相手の人格のエミュレータが動いているかのように。

意識した思考で、 相手の考えを一ステップづつシミュレートしていては遅すぎる。 あくまで相手の気持ちになりきることが重要。 無意識の思考で、相手の人格のエミュレーションができるようになれば、 無意識における相手の思考と、 意識した自分の思考をインタラクションさせることができるようになる。

無意識における相手の思考と、 現実の相手の思考との差をフィードバックさせて、 エミュレーションの精度を高めることができる。



hiroaki_sengoku at 15:20|この記事のURLComments(0)TrackBack(1)
このエントリーを含むブックマーク 2006年04月18日

誰しも言うことで、なにもここで書かなくたって 誰しも百も承知だと思うが、 あまりに重要すぎるのであえて書く。

病は気から、ネガティブに考えれば必ず悪くなる。 悪くなる可能性のあることは必ず悪くなる。 ならば無理やりにでもポジティブに考えよう。 どうしてもポジティブに考えられなかったら、 まずは冷静に考えられるようになるまで考えるのをやめてしまえ。 家に帰って寝てしまえ。

冷静になって考えれば、どんな苦境に立った時だって、 大して不幸なわけじゃない。 どんなに困難な問題にぶちあたったって、 解決策が見つからなくたって、 解決策を見つけようとすれば経験値が上がる。 ポジティブに考えれば、必ずうまくいく。 失敗は成功の母、必ず次につながる。

むしろうまくいっているときほど慎重であれ。 成功は失敗の母、成功体験にとらわれれば、 いつか必ず失敗する。 勝って兜の緒を締めよ、落とし穴はいたるところにある。



hiroaki_sengoku at 19:02|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)
このエントリーを含むブックマーク 2006年04月11日

同時に考えよう」で無意識の思考について私自身の経験について述べたのであるが、驚いたことにそういう仮説が実際にあって、実験も行われているらしい。

Don't think too much, It's allright」(医学都市伝説)で紹介されている論文によると、

多くの判断要素のある事柄の選択については、無意識的思考が勝るという作業仮説から研究を行った。仮説は「集中なき熟考」と名付けられ、それを元に消費選択についての四つの実験が行われた。これらは実験室だけでなく、街角の商店でも行われ、複雑な判断要素のある商品購入の際には、意識を集中させた熟考によって、かえって悪い結果を得られることが確かめられた」。

だそうだ。この仮説が「都市伝説」なのかどうかよくわからない (^^;) が、

著者たちはこれらの結果から、どこに住み、どんな仕事をするかというような、多くの判断基準が錯綜する事柄について選択をする場合、それらの条件をいったん胸に納め、それに集中することなく「無意識下」で暖めておくことが、もっともよい決断結果が得る道だと主張している。

という主張は、私の感覚ととてもよくマッチする。判断基準から選択を行う思考の場合だけでなく、初めて見る数学の問題を解くとか、さらには全く新しいアイディアを思いつく、などといったような創造的な思考をも無意識下に行える、と私としては主張したいところであるが、実験で「創造的な思考を行えたか」検証するのは難しそうだ。



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このエントリーを含むブックマーク 2006年03月31日

仕事をやりかけのまま中断する。 たくさんの仕事がやりかけのまま溜まっていることになる。

やりかけのまま中断しているものは、いつでも再開できるように、

書きかけのメールなら、
メーラで開きっぱなしでいつでも送信できるように
書きかけの文書なら、
いつでも続きが書けるようにアプリケーションで開きっぱなしに
開発途中のプログラムなら、
いつでもデバッグできるようにデバッグ環境を立ち上げっぱなしに
アイディアを練るときは、
いつでも思いついたことをメモできるように書きかけのメモを身近に
チャットしようとして返事がないときは、
チャットウィンドウを開きっぱなしにしておく
WWW で調べものをするときは、
とりあえず検索して関係のありそうなページを開くだけ開いておく

効用1: 隙間時間を有効に活用できる

一つの仕事を一気に完了させようとしなければ、 とりあえず始めるだけ始めるということでよしとするなら、 隙間時間でも始めることはできる。 あるいは、やりかけの仕事を少しだけ進めることなら、 隙間時間でも活用できる。 また、待ちが多い仕事は多重化することによって、 同時に進行させることができる。

効用2: 心理面

一つの仕事を、ゼロから始めるのは敷居が高い。 やりかけている仕事の続き、ということだと敷居が低い。 一つの仕事を完了させようとすると、 細かいところまで神経を配る必要があって大変。 細部は後で考えればいいやと割り切れば気が楽。 逆に、ほとんど完成していて細部の仕上げだけの仕事は どんどん片付けられるので気分的に楽。

効用3: 同時に考えよう

無意識の思考の活用。 仕事をやりかけのまま寝かせておくと、 いい考えを思いつくことが多々ある。 書きかけの文章を寝かせておくと、 適切な言い回しを思いつくことが多々ある。

4/3追記: 同じような趣旨の日記を見つけた。
 結城浩の日記
 複数の仕事をすることについて
 勉強日記の書き方



hiroaki_sengoku at 07:16|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)
このエントリーを含むブックマーク 2006年03月23日

意識した思考はとても遅い。 どのくらい遅いかというと、 言葉に出して思考の筋道を話すことができるくらいだから、 推論の 1ステップに数秒かかったりする。 しかも、脳の短期記憶は 7+α しか覚えられないと言われるから、 中間結果を覚えておく容量もとても小さい。 だから、紙に書き出したり、カードを使って考えたりする。 書いたりカードを並べ替えたりしなければならないので、 さらにスピードが遅くなる。

では、なぜ人は、 コンピュータ顔負けのスピードで思考できるかといえば、 無意識に膨大な推論を行えるからだろう。 よく「ひらめき」とか表現されるが、 要は無意識に行った推論の結果が意識にのぼるから、ひらめく。

同時に一つのことしか考えられない、というが これは意識した思考のこと。 意識は (多重人格者でもなければ ^^;) 一つしかないし、 一つの意識では、7+α の短期記憶しかないから 一つのことしか考えられない。

無意識の思考にはこのような制限はない。 いくつでも同時に思考を走らせ、 結果が得られたらそれを意識にのぼらせればよい。

私が初めて、同時に複数の思考が行われたのを意識したのは、 大学入試のときだった。 早稲田大学の数学の試験だったと記憶しているが、 設問を順に解いていったが、 ある設問を考えていく途中で、行き詰ってしまった。 あまり一つの設問に時間をかけすぎるのは得策でないので、 その設問は後回しにすることにして、次の設問に移った。

次の設問を解き終え、 さらにその次の設問を解いている時だっただろうか (なにぶん 20年以上昔の話なので詳細は覚えていない)、 突然、さきほど行き詰った設問の解き方が頭の中にひらめいた。 そのときは別の設問に集中していて、 少なくとも意識からは完全にその設問のことは忘れ去っていたにも かかわらず、である。

そのときの「ひらめき」の体験があまりに鮮明だったために、 今でも覚えているし、 どうやったら無意識の思考をより活性化させることができるか、 考えるようになった。 意識しなくても思考が続くように、 しかも有意な結果が導かれるようにしなければならないのだから、 そんなに容易ではないが、 日頃から深く考え続けているような事に関しては、 ひらめく頻度が高いように感じる。 おそらく無意識で考え続けているのだろう。

アイディアを次から次へとひらめく人は、 無意識の思考が多数同時に進行しているのだと思う。



hiroaki_sengoku at 13:05|この記事のURLComments(1)TrackBack(4)
このエントリーを含むブックマーク 2006年03月20日

コバヤシマル テストという戦術シミュレーションがある。 Startrek 映画版 2作目の冒頭で登場する、 艦隊士官候補生のための試験であるが、 (敵の火力が圧倒的であるために) 勝つ方法がない。 そして、勝つことができたのは唯一、カークだけで、 勝てるようにシミュレーションプログラムを細工した、という話。

テストには解があることが多いが、 現実問題だと解があることのほうが稀で、 問題の中だけで考えていては解決不可能なことが多い。 もちろん問題を正面からとらえて解決策を考えることも重要であるが、 一歩視点を引いてみて、問題の枠組み自体を変更できないか、 考えてみることも重要。

問題の解決に集中しすぎると、 問題そのものについて考える余裕がなくなってしまう。 いま取り組んでいる問題は、 どのようなルールにしたがっているのか思いをめぐらせてみると、 そのルールを変えるにはどうしたらいいかが見えてくるかもしれない。



hiroaki_sengoku at 13:26|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)
このエントリーを含むブックマーク 2006年03月15日

人は誰しもすぐ忘れるもの。 なにかやりたいことがあっても、すぐ忘れる。 せっかく空き時間があっても、そのときはやりたいことを忘れている。 そのくせ、やりたいことはあるんだけど、時間がない、などと言う。

ほんの一行、いや一単語だけでもメモに書いておけば、 たいていの場合、そのとき何を考えていたか、思い出せる。 その一単語を、空き時間ができたときに膨らませていけば、 チリも積もればなんとやらで、一つの成果となる。

この blog も、そんなメモのつもりで書いていきます。 で、空き時間をつかって内容を膨らませていき、 近日オープン予定の blog ページで公開する予定。

4/5追記: 仙石浩明CTO の日記をオープンしました。



hiroaki_sengoku at 19:43|この記事のURLComments(0)TrackBack(1)