技術と経営
転職エージェントとは、 求職側と求人側のマッチングを行なう人材紹介会社のこと:
正式には「有料職業紹介事業所」と呼ばれ、 厚生労働大臣の認可を受けた民間の職業紹介・あっせん会社のことです。 転職を希望する方と、正社員などを募集している企業とを 「人の手」でつなぐサービスを行っています。 転職エージェントが集めた求人情報は、 企業の人事担当者から直接仕入れた生の情報です。 そのため、企業の求める人物像を的確に把握した上で、 マッチングを行うことができます。転職エージェントとは から引用
転職の際、お世話になった人も多いだろうし、 かくいう私自身、KLab(株) 創業メンバに加わるきっかけは、 転職エージェント (もちろん、上記引用先エージェント会社とは異なる会社である) に紹介されたからだった。
当時 (2000年3月)、連載記事を書いていた日経Linux の巻末「ライターから」に、
転職には全く無関心だった (転職雑誌は一度も読んだことがありませんでした) 私が なぜ転職することになったのか、話は半年以上前に遡ります。 昨年の夏、突然職場に外国人から電話がかかってきました。 慣れない英語で必死に聞いていると、 どうやら就職斡旋会社の人 (かっこよく言うとヘッドハンタですが ;-) のようです。 胡散臭いと思いつつも何度か英語のメールをやり取り (もちろん職場のアドレスを使うのは避けました) すると、 真っ当な斡旋会社であることが分かったので、一度会ってみることにしました。
と、書いたように、 ある日突然電話がかかってきて、誘われるままに企業を紹介されただけだったので、 転職エージェントがなぜ無料なのかも理解していなかった。 転職希望者から見ると無料だが、 実際は求人企業が「コンサルティングフィー」を負担しているから無料、 というだけのこと。
転職エージェントは、 転職希望者に相談料やサービス料を求めることは一切ありません。 それは、企業の採用を支援することにより、 求人企業からコンサルティングフィーを受け取っているからです。転職エージェントとは から続けて引用
私を採用するときに支払ったこの「コンサルティングフィー」が いかに高額であったかを、 後になって愚痴っぽく聞かされたものだが、 あれから 7 年、KLab(株) は順調に発展しているわけであるし、 負担させてしまった「コンサルティングフィー」に見合う働きは できたのではないかと自負している。
求人企業が支払った「コンサルティングフィー」が、 「コンサルティング」を受けたことによって 求人企業と求職者とが得た「利益」に見合えば、 転職エージェント、求人企業、求職者の三者ともハッピーであるわけだし、 (私自身の事例も含めて) そういう転職事例も多いとは思う。
しかしながら、求人企業と求職者が得た利益の合計が 「フィー」を下回る場合はどうだろう? 三者のうち、 一者 (求職者) がこの「フィー」の額を知らされないという点に、 この転職斡旋の仕組みの問題があるように思う。 すなわち、求職者にとって転職エージェントは キャリアアドバイスを受けられたり、求人企業との交渉を代行してくれたりと、 とても「心強いパートナー」なのであるが、 このサービスが実際に支払われる「フィー」に見合うか否かの判断は、 「フィー」の額を知らなければ不可能だと思う。
さらに言えば、求職者が転職エージェントから受けるサービスは、 どんなに親身なキャリアアドバイスであったとしても、 どんなに高く見積ったとしても、 数十万円以上の価値を認める求職者は極めて稀なはず。 もし仮に求職者自身がサービスの対価を支払うのであれば、 もっと低い額になってしまうかも知れない。 つまり求職者側の感覚からすれば、 一般的なコンサルティングフィーは、文字通り桁違いに高額である。
だから、コンサルティングフィーは、 求職者に対するサービスというよりは、 求人企業に対するサービス (つまり求職者を探しだし、紹介すること) の 対価ということになる。 希少な人材であればあるほど (探し出すにはコストがかかるから) サービスを受けることによって求人企業が得られると感じる利益は大きくなるわけで、 得られる利益がフィーより大きいと考えれば、 紹介してもらった人を喜んで採用することになるし、 得られる利益がフィーより小さい、 すなわちあまり希少性が高くない人材と判断すれば、 たとえ採用基準を満たしたとしていても、 不採用になるだろう。
求職者にとっての転職エージェントを、 「プロスポーツ選手のエージェント」に喩えることがあるようだが、 この喩えは次の理由で不適切と言わざるを得ない。 すなわち、「プロスポーツ選手のエージェント」は、 選手の代理人として、 選手の利益を最大化することを目的として行動するのに対し、 転職エージェントのサービスは前述したように主に求人企業に向けられている。 プロスポーツの選手は当然、エージェントの成功報酬額を知っていて、 エージェントが報酬額に見合う働きをしていないと思えば、 その契約を解消して別のエージェントと契約するだろう。 一方、転職エージェントの場合は、 求職者が成功報酬額を知らないばかりか、 エージェントとの契約が簡易な「登録」で済まされてしまうことも多い。
つまり、「転職エージェントは、誰の『エージェント』なのか?」といえば、 求人企業に代わって求職者を探してくれる、 求人企業のエージェント (代理人) なのである。 このことは秘密でも何でもなく、多くの人が知っている事実だと思うのだが、 問題は当事者である求職者が、この事実を知らされていない、 あるいは「求職者のエージェント」であると誤解するのを放置している、 あるいは (派手な広告宣伝などによって) 誤解を助長していることにあるのだと思う。
求職者にもコンサルティングフィーの額を開示する、 あるいはキャリアアドバイス (and/or 求人企業との交渉の代行) と就職斡旋を分離する、 というのは非現実的かも知れないが、 転職エージェント業界がより健全に発展するために 必要な思考実験のようにも思われるのだが、 どうだろうか。
なぜこんな話をするかと言えば、 数年来の知人を転職エージェントに紹介されてしまう、 というハプニングに最近見舞われたからだ。 求人企業と転職希望者が勝手に直接意思疏通しては、 転職エージェントが「フィー」を請求できなくなってしまう。 そこで転職エージェントは求人企業と契約を結んで、 このような意思疏通を制限するのが一般的だが、 おかげで知人なのに話せない、というとても苦しい立場に追い込まれてしまった。
不条理を感じつつも、契約は契約なので仕方がない。 その知人がメールで、
転職エージェント A社さんの件で すが A社さんと連絡をとった所、説得されてしまいまして
(^.^;)このまま A社さん経由で手続きさせていただきたいん ですがよろしいでしょうか?
仙石さんからしてみたら回りくどいことをとお思いかもしれません が、どうか宜しくお願いします。
A社さん自体はいいエージェントさんだと(私は)判断してま すので、宜しくお願いします。
と連絡してきた時点で万事休すである。 私にできることといえば、 転職エージェント経由で送られて来た知人のレジメを読んで、 書類選考の結果を転職エージェント経由で返すことだけである。 知人にとっては、転職エージェントを利用するメリット/デメリットは、
- メリット:
- A社が応募書類の送付などの手続きを代行してくれるから楽。
他にも数社に応募していて、そこら辺のスケジューリングとか交渉が楽になる。 - デメリット:
- 「回りくどい」と私に思われる
であって、 メリットの方が大きいと判断したのだろう。 よもや、 (転職が成立した暁には) 「手続きとかスケジューリングとか交渉が楽になる」なんてメリットが 消し飛ぶくらい高額のフィーが転職エージェントに支払われることになろうとは 夢にも思っていないはずである。
いくら高額でも自分で払うわけじゃないから気にならない、 と考える人がいるかも知れないが、 フィーの額が採否を左右するとしたらどうだろう? 求人企業側にとってはフィーを払う以上、 そのフィーに見合う人材かどうかが採否の判断基準になるのは当然のこと。 だとすれば不当に (?) 高い値段が自分につけられていないか、 気になるのではないだろうか?
この知人のケースでは、 能力的には KLab(株) の採用基準を満たしていそうな気もした (面接は行なっていないので定かではない) のだが、 フィーに見合うほど希少性が高いとは言いきれなかった。 そこで不採用の旨を転職エージェント A社に伝えた。
求人企業側として転職エージェントと取引することが多いのだが、 どういうわけか転職エージェントに求職者側として扱われることもある。 つまり転職エージェントから転職の誘いが来る。 ほとんどは下手な鉄砲数打ちゃ当る式に勧誘しているだけだろうから 無視しているのだが、 中には私のブログなどにも目を通して狙い撃ちしてくる転職エージェント (エグゼクティブ サーチと呼ばれる場合が多いかも) もある。 しかも特定の企業から依頼を受けて連絡したことを匂わせていたりする。
私の場合、コンサルティングフィーの世間相場もだいたい理解しているつもりだし、 (もちろん転職する意志はないが) 仮に誘いにのって転職するとすれば、 そのフィーの額を上回る価値を転職先企業に提供できる自信もある。 しかし私の名前を指定して転職エージェントに依頼するほど 私の能力を買ってくださる企業ならば、 なぜ転職エージェントなどを介さず直接連絡してこないのだろうか、とも思う。
続きを読むIPA (情報処理推進機構) のかたとお話しした。 優秀なソフトウェア技術者の成果をビジネスにつなげるための支援をするには、 どうしたらいいかヒアリングしたいとのこと。
ああ、この人もソフトウェアをモノと誤解している人なんだ。
ソフトウェア以外の分野、 たとえばバイオや新素材などでは 優れた発明・発見がビジネスに直結する。 真に有効なモノ (例えば新薬や新素材) の真に有効な製造方法が発明されれば、 あとは製造工場を建設するのに必要なカネがあればよい。 だから、資金援助を行なうことが即、その産業の振興につながる。
しかしながらソフトウェアはモノではない。 ソフトウェアには特殊な製造方法などなにもない。 あるソフトウェアを作るのに特殊な「知的財産」が必要、 などということはないのである。
確かに、ソフトウェアの分野にも一応「発明」と称するのものがあるが、 その「発明」が公開されなければ製造できないソフトウェアが果たしてあるだろうか? 「ソフトウェア特許」を認めるべきか否かについては様々な議論があるが、 ソフトウェアを他の分野と同列に扱うことはできない、 ということだけは確かであろう。
では、ソフトウェア産業の振興には何が必要なのか? なぜ日本のソフトウェア業界には (例えば Google のような) 破壊的なイノベーションが生まれないのか?
簡単である、ソフトウェアを作る優秀な技術者が足らないからである。 だから振興策も簡単で、 技術者をビジネスの現場に引き合わせればよい。
と言ったら、IPA でも 未踏ソフトウェア創造事業で発掘した人材を、 ソフトウェアの販売会社と引き合わせている、 という答が返ってきた。
そんなことを言っているのではない!
未踏事業で開発したソフトウェアを販売会社に紹介すれば、 確かに興味を持つ会社は出てくるだろう。 実際に販売してくれるところも出てくるかも知れない。 でもそんなことをして高々数千本ソフトウェアを売ったところで何になる? せいぜい (すごくうまくいったとしても) 数憶円の売上にしかならないだろうし、 数千本といえど売れば開発者はサポートに忙殺されてしまう。 せっかく発掘した貴重な人材の使い道としては、 あまりにモッタイナイ使い方ではないか。
優秀な技術者をソフトウェア販売会社に引き合わせたって意味はない。
優秀な技術者を「ビジネスの現場」に引き合わせなければならない。
つまり、優秀な技術者がその能力を存分に発揮し、
その能力に見合う報酬を喜んで支払う「事業家」に引き合わせなければならない。
日本のソフトウェア産業がアメリカに負けっぱなしなのは、 優秀な技術者が日本にいないからだろうか?
否!!
優秀な技術者と、優秀な事業家が、出会っていないだけである。 日本にも、勢いのある IT ベンチャーは数多い。 ところがそうしたベンチャーに入社しようと思う優秀な技術者がどれだけいるのか? ほとんど全ての IT ベンチャーは優秀な技術者を渇望している。 その一方で、大企業の研究所には優秀な技術者がゴロゴロしている。 私は日立製作所の研究所に 8年間勤めたので痛感しているのだが、 私よりよっぽど優秀な人が、特に活躍するわけでもなくゴロゴロしている。 つまり凡人でもできるような仕事をして、 凡人と同レベルの給料をもらって満足しているのである。
もちろんお金が全てではないし、 優秀な人はすべからくその能力をフルに発揮して活躍しなければならない、 というものでもない。 自らの能力を披露することなく静かに暮すのも一つの生き方であろう。
しかし、優秀な技術者の大半が、大企業の奥底で眠っているのだとしたら...?
そして日本のソフトウェア産業を振興させたいと思うのなら...?
それなら有効な振興策は一つしかない。
唯一にして最も効果的な究極の振興策、それは...
大企業の一つをつぶして、死蔵していた優秀な人材を放出させることである。
「「ソフトウェア開発」は「モノ作り」ではない」を とても多くの方々に読んで頂けた。 コメント/トラックバックを頂いた方々、 はてなブックマーク して頂いた方々に 感謝申し上げる。
これだけ多くの方々に読んで頂くと、 誤解するかたも少なくないようだ。 まあ、私の文章力が至らないのだから仕方ないが、 誤解したかたも、もう少し説明を補足すれば理解し合えるのかも知れず、 もう少し書いてみようと思う。
一番の失敗は、 日経ビジネス online の記事を引用してしまったために、 この谷島氏の記事「ITの常識は世間の非常識」の主張が、 私の主張 (の一部) と思われてしまった点だ。 谷島氏の記事では、
「そもそも情報システムと自動車を同一視することもいかがなものかと。 情報システムを何か出来合いの産業機器のように受け止めているわけですよね。 やはり、顧客の意思が反映されるソフトウエアというものをお分かりではない、 ということでは」
ということにまで言及しているが、 私が主張したかったのは「ソフトウェア開発とは何か?」ということであって、 私が言う「開発」とは狭義の開発であり、 谷島氏のメインの主張である要件定義の話まで踏み込むつもりはない。
言うまでもなく要件定義はシステム開発を請け負うにあたって 最重要なステップであり、 要件定義の良し悪しがプロジェクトの成否を分けると言っても過言ではない。 しかし、だからといって他のステップを 無視してしまっていいというわけでもないだろう。
「システムを開発する技術者は、コンサルタントを目指すべし」くらいの勢いで 主張されるかたも多いし、 日経BP 等の Web ページを見ていると、 技術者にとって必要なスキルはコミュニケーション能力だ、 という主張ばかりが目立つ。 確かにコミュニケーション能力は重要ではあるが、 技術者の本分はあくまで「技術力」であって、 それをないがしろにしていいわけがない。
なので、私が主張したいのはあくまで、 技術者がどうすれば技術力を磨くことができるか、 という点にある。 そして、技術力を磨く上で最大の障害になっていると私が感じるのが、 ソフトウェア開発が何であるか、 技術者をとりまく人たち (特に経営側) が分かっていないことが多いし、 いやそれどころか当の技術者さえ、きちんと理解できていないことがある、 という点なのである。
ソフトウェア開発が何であるかが分かっていなければ、 すなわちソフトウェア開発を「モノ作り」と考えていては、 技術者を育てようとしても、 あるいは技術者自身がスキルアップを目指していろいろ勉強しても、 本質を外して徒労に終わるリスクが高い。 せっかく勉強するなら、きちんと本質をとらえて、 「技術力」を確実に伸ばしていって欲しい。
いつのころからか、 ソフトウェア開発がモノ作りに喩えられるようになった。 典型的なのは、製造業(例えば自動車製造)と IT 業界とを比較して、 前者が高度にシステム化されているのに対し、 後者がまるで家内制手工業のようだ、という批判である。
日経ビジネス online の記事に次のようなくだりがあった:
「というより、何といいますか、経営トップからすると、 ITはとにかく非常識な世界だ、としか思えないのではないかなあ。 例えば大きなシステム開発プロジェクトに取り組むと、 すぐ100億円を投資する、という話になってしまう。 100億円の経常利益を出そうと思ったら本当に大変。 ところが、100億円を投じたのに、期限までに完成しない、 出来上がってきたものが当初計画と違う、 直そうとするとさらに金がかかる。 こんなことが起きるわけですから、『一体なぜなんだ』と経営トップは思うわけです」
IT業界は 100億円かけても使えるものが作れない非常識な世界、というわけである。 まあよく聞く批判で、そう言いたくなる気持ちも理解できるのであるが、 100億円が高いとする根拠がいただけない。 同じ記事中に続けてこういう話が出てくる:
「例えば、自動車を買うとします。 希望の車種と色調を言えば、その通りの車が期限通りに納車される。 万一、色が違っていればすぐ取り替えてくれるし、 その車が動かないなんてことはまずない。 欠陥があった場合、リコールがある。 しかし、コンピューターの場合、自動車ではありえないことが四六時中起きる。 経営トップとしては何とも理解し難いわけです」
つまり、ソフトウェア開発を自動車の製造と比較しているのである。 自動車は、「わずか」数百万円なのに「使える」製品が買える。 自動車と同程度に複雑なソフトウェアを開発しようと思ったら、 少なくとも数億円から数十億円はかかるだろうし、 数十億円かけたところで、 現在の工業製品としての自動車のレベルの品質は望むべくもない。
このような批判は、 「ソフトウェア」を「モノ」と同一視したためにおこる誤解が元となっている。 ソフトウェア開発という「家内制手工業」をせめて「工場制手工業」へ発展させ、 ゆくゆくは「機械制大工業」に進化させようという試みの多くも、 同様の誤解がベースになっているわけで、 「ソフトウェア開発」を「モノ作り」と見なす誤解は、 広く蔓延してしまっているのかもしれない。
問: 「ソフトウェア開発」が「モノ作り」でないなら、何なのだ?
答: 「設計」である。
自動車とソフトウェアを比較するなら、 「自動車の設計図」が、 「ソフトウェア」(より正確に言えばソースコード) に相当する。 「自動車の製造」に相当するのは、 ソフトウェアを出荷するときに行なう「ビルド」「コピー」「パッケージング」 であろう。
「自動車の製造」には例えば一台あたり百万円を超えるようなコストがかかり、 1万台生産しようとすれば 100億円を超えるコストがかかる。 大量生産すればするほど「製造コスト」が支配的になるから忘れがちであるが、 自動車の設計にも結構なコストがかかっている。 設計図を引くコストだけでなく、その前提となる研究開発も必要だし、 エンジンや制御用コンピュータなどの部品の設計も含めれば、 ゼロから一台の車を設計するコストは、かなりの額 (よく分からないが数億円で済むとはとても思えない) になるだろう。 完全「特注」の自動車を設計してもらうとしたら、 いったいどのくらいかかるのだろう?
一方、ソフトウェアの開発においては、 「製造コスト」は無視できる。 1万本生産するとしても、パッケージングコストは 1 本あたりせいぜい数百円程度だろうから、数百万円程度で済んでしまう。 ダウンロード販売なら何万本生産 (つまりコピー) しても原価は 0 円である (もちろん、ダウンロード サイトの運用などには費用がかかるが、 それは原価ではなく「販管費」である)。
ソフトウェアの設計というと、 要件定義、外部仕様、詳細仕様、等々を作ることを指すことが多いのでややこしいが、 製造業においても、図面を引く前には仕様を詳細につめているはずなので、 自動車の設計図を書く工程を「設計」と呼ぶのであれば、 ソフトウェアのコーディングも「設計」と見なすべきだろう。 コーディングの「家内制手工業」ぶりを批判したいのであれば、 比較対象は設計図を書く工程であるべきであって、 組み立て工程ではない。 ソフトウェア開発の近代化は重要な課題であるが、 そのお手本を「機械制大工業」における「製造工程」に求めてしまっては、 大きく道を誤る。
(つづく)
昨日放送された NHK スペシャル (21:00〜):
「ワーキングプアー・働いても働いても豊かになれない」
低所得者層の拡大
定職につけない“住所不定無職”の若者
基幹産業の不振ほか
で、「働いても豊かになれない」若者が、 自分だって普通の人と同じくらい、「中の上」くらいの能力はある、 と言っていたのが妙に印象的だった。
ソフトウェアの開発業界では、 「中の上」の人 10人より、 「上」の人 1人のほうが力になる、 というのが常識として浸透しつつあると思う。 「人員を投入すればするほど、かえって工期は長引く」とか、 「少数のプログラマで開発する方が短期間で品質の高いものが作れる」 とかの事例は広く知られるようになった。 しかし世間一般では、 まだまだ「大勢の普通の人」の方が 「少数の優秀な人」より役に立つ、 という感覚なのかも知れない。
高度成長期のころ、能力の「中流」は、生活水準の「中流」につながった。 情報革命が進行しつつある現在、 「中流」の能力を持つ労働者に「中流」の待遇を提供できないのを、 企業の責任と言いきってしまって良いのだろうか? 「中流」の能力が以前ほど重要視されない原因を、 「規制緩和」に求めるべきなのだろうか?
人は様々な判断をする。 経営上の決断だったり、 設計方針の決定だったり、 あるいはキャリアパスの選択だったりする。
あらゆる「判断」には、 その判断をするという「結果」をもたらした「原因」がある。 理詰めで行なった判断であれば、 どのような思考過程でそのような結論に至ったか、 明確にすることは比較的容易かも知れない。
しかし全ての思考過程が白日の下にさらされることは稀だろう。 理詰めの判断だと思っていても、 その一部が直感に頼っている場合もあるかもしれないし、 思い込みに捕らわれた論理の飛躍があるかもしれない。
直感といっても天から降ってくるはずはなく、 無意識の思考の結果だろう。 常にその思考の源泉があるはずである。 無意識の思考をかきわけ、 その直感がもたらされた真の原因を突き止めるべきだと思う。 無意識の思考をたどっていくうちに、 演繹の連鎖の中に、 思い込みや嗜好が関係していることがあるかもしれない。
もっとも危険なのは、 無意識のうちに過去の成功体験の事例を踏襲してしまっているケースだろう。 成功事例は、その前提条件が現在も成り立つときに限り有効であり、 前提条件を無視して無理矢理過去の事例を適用しようとすれば、 成功は失敗の元となる。
しかも、変化の早い現代においては、 以前の前提がそのまま成り立つことは、ほとんど有り得ない。 過去のやり方を真似ようとするときは、よりいっそう慎重にならなければならない。
過去と現在との条件の違いを明確にした上で、 過去の経験を活かすのであればよい。 過去の経験は資産になるだろう。
しかし、 無意識の思考で過去の経験を採用してしまうと、 本当にその前提条件が成り立つのか「意識」することなく 無意識に思考が進んでしまいかねない。 「判断」という結果を出すまでに、 その誤謬を正すことができるだろうか?
無意識の思考で発生した前提条件の齟齬が、 アラートとして意識に上ってくる場合もあるだろう。 上がってこない場合は、無意識の思考の過程を洗い出さなければならない。 無意識の思考は意識で想像するより深く入り組んでいる場合もある。 何が判断に影響を与えたのか、 常日頃から思考を遡って無意識の思考を監視する習慣が大切だろう。
その一つのきっかけとなりうるのが、 判断が結果的に間違っていたと思ったときに行なう反省、 すなわち「失敗から学ぶ」ことである。 失敗は、無意識の思考からアラートが上がってこない場合に、 外部から与えられるアラートである。
無意識の思考のアラートを次回こそは機能させるためにも、 失敗の原因をとことん追求すべきである。 ゆめゆめ失敗の原因を外部要因に転嫁して、 自己の思考を正当化してしまうことのないようにしたい。 そんなことをすれば、 追求が途中で頓挫してしまい、 失敗が次に活かされない。 「思い込み」が放置され、 無意識の思考に対する監視機能が働かないままになる。
そもそも言い訳など無意味である。 思考は全て自分のものであるのだから、 間違った思考の責任は全て自分にある。 自分自身に言い訳をして、 自分自身を欺くことの無いようにしたい。
先月 4/14 19:30 NHK で、特報首都圏「就職戦線異状あり・格差社会の不安」と 題する番組があった。 新卒の学生さん達が「勝ち組になる」ことを目指して 就職活動を行なっているのだという。
そりゃ、勝てるものなら勝ちたいと思うのは人の常なので、 これから社会に出ていこうとする学生さん達が、 将来勝ち組になれるような就職先を選ぼうとするのは至極当然のことだと思う。
ところが
学生さん達曰く、「勝ち組になるため、儲かっている会社に就職したい」。
オイ、それは根本的に間違ってるぞ、と言いたくなる。 儲かっている会社、それはお金を産み出す仕掛けが確立している会社である。 つまりできるだけ属人性を排した、回り続ける仕掛けが確立している会社である。 このような会社が新卒採用を行なうのは、 仕掛けを維持するために「歯車」の補充を行なうためである。
すでに出来上がっている仕掛けは、それが陳腐化するまでは、動き続けるだろう。 動き続けるには若い人を採用し育てることが必須だから、 そういうことまでも含んだ仕掛けである。 このような仕掛けに参加すれば、 仕掛けの中で活躍できるレベルまで育ててもらえるし、 仕掛けが動き続ける限りは安泰である。
しかしそれは「勝ち組」ではない。 勝ち組なのは、放っておいても回り続けるその仕掛けを作り上げた人であって、 いったん仕掛けが回りはじめたとき、 その人はその仕掛けの中にはいないはずである。 それが「属人性を排する」という意味である。 「属人性を排する」すなわち「置き換え可能」な人材で 仕掛けを回すことであり、 置き換え可能な人材は「勝ち組」では有り得ない。
したがって、勝ち組になるには、 出来上がって回りはじめた仕掛けに歯車として参加するのではなく、 そういう仕掛けが無いところに参加し、 仕掛けを作る側にまわらなければならない。
もちろんどうやって仕掛けを作るべきか最初は分からないだろう。 当然、失敗することもある。 しかしそうやって無から有を作り出す経験を積んだ人材は決して、 置き換え可能ではない。 仕掛けを作り上げようと悪戦苦闘する組織は、属人性のカタマリである。 将来の勝ち組になるには、 そういった組織の中に身を置かねばならない。
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人は働かねばならない、と誰が決めたんだろう?
働かなくても生活できるなら、働く必要はないわけで、
ただ単に、勤労は国民の義務だ、なんて言っても意味がない。
[技術]Agdaの紹介Flashから引用:
定理証明ツールが動いているところ、生まれて初めて見た。感動。自分もつかってみたいが、ドカタSEなのでそれよりやらないといけないことがあるのが悲しいところ。資産が50億ぐらいあったらニートになって毎日こんなことばっかりしたいな。これ、俺の夢(←駄目人間)。
50億もなくても生活できると思うが、 まったくお金を稼がずに生活しようと思うと、 数億は必要だと思われるので、 なかなか簡単ではない。
しかしながら、 技術者の生産性には人によって 3桁の差があるわけで、 並みの技術者の数倍の生産性がある人なら 大勢いるだろう。 そういう人たちにたとえば一日3〜4時間だけ 会社の利益に直結することをしてもらって、 一日の大半の時間は好きなことをやってもらう。 もともと生産性が高い人なら、3〜4時間の労働だけでも、 生活に困らないくらいの給料を出すことができる。
ほとんどの時間、 引きこもって好きなことをしているように見えるわけで、 まあニートみたいに見えるかもしれないが、 向いてない仕事を嫌々やるより、 好きなことをとことん突き詰めるほうが、 よほど健全だと思うし、 実は社会への貢献度合いも高くなる可能性が高い と思うのだが、どうだろうか。
CTO日記に書いた、
「実力主義・能力主義」が (思いの外 ;) 多くの方々に読んで頂けているようだ。
私がこだわっていることから 3つ紹介しているのであるが、
ほとんどのかたが、「技術者の上司は技術者であるべきです」に
注目しているのが興味深い。
勤務時間の10%以内であれば上司の許可を得ずに何をやってもいいという「どぶろく制度」
よりも上司が技術者であることのほうが関心が高い、というのは
現在の上司が理解がないと感じている人が多い、
ということを反映しているのだろう。
上司に自分の能力を正しく評価して欲しい、と 思うのは技術者として自然な感覚だとは思うのだが、 注意すべき点が二つほどあるように思う。
一つめは、視野狭窄に陥らないという点。
もう一つは、
現実問題としては、上司が技術者でない人が存在する、という点。
まず一つめの点であるが、 「上司に自分の能力を正しく評価して欲しい」と思うとき、 上司と自分との関係しか見ておらず、 しかもそれは自分からの視点のみであって、 相手がどう思っているかという視点が欠けているのではないか? 会社という運命共同体の中で自分がどのような位置にあり、 自分としてはどのような役割を果たすのか明確になっているだろうか? また、 上司はどのような考えで自分を評価しているのか、 その評価にはどのくらい妥当性があるのだろうか? そういう視点からみたとき、 見え方が変わってこないか自省すべきだろう。
もう一つの点、上司が技術者でない人の存在について考えてみる。 まっさきに CTO が思い浮かぶ。 確かに CTO の上司は社長であり、多くの会社で社長は技術者ではない。 しかし、よほど小さい会社でもない限り、 CTO 以外にも上司が技術者でない人は沢山いる。 そのような人達は、技術者以外の視点も持って、 上司や職位が同じレベルの他部門の人達と調整を行なわなければならない。 そういう調整能力と、部下を正しく評価し育成できる能力と、 両方兼ね備えた人材が豊富にいるのであれば問題無いが、 一般的にはかなり困難だろう。
だから、そういうポジションに技術者を登用する場合に、 調整能力を重視するのか、部下の育成能力を重視するのか、 考えなければならない。 この育成能力というのは、技術が分かっていることとはまた 別の次元だったりするので、さらに話は難しい。
取引先が秘密保持契約(NDA)のもと開示した秘密や、お客様のデータや、経営情報などについては、あからさまに「秘密」という感じがするので、それが守秘義務の範囲に含まれることは誰の目にも明らかだろう。では、ノウハウはどうだろうか?
本当に件のノウハウなんか「しゃべるな」と言われたから(=明確に秘するべき事と定義されたから)言わないだけで、別にそれを知ったからといってPerl のディストリビューションができるわけでも、俺もディストリビューションを作ってやろうと思わせるもんでもないし、マジで「コロンブスの卵」のノウハウ程度のもの。 (秘密にすべきことは明確にされるべき)
なにを「秘するべき事と定義」するかは各社の考え次第だから、私がとやかく言うことではないが、少なくとも弊社(KLab ないし KLabセキュリティ) では、アイディア自体は秘密とは考えない。
ベンチャー起業の鉄則
アイデアなんて二束三文だ
(ベンチャー起業の秘訣!無料アイデア付き)
と社長自らが言っているし、 私も以前考案したDB サーバのセキュリティ向上策をはじめとして、 実地の運用ノウハウを公開していきたいと思っている。 「アイデアは人に話すことで熟成していく」 (ベンチャー起業の秘訣!無料アイデア付き)と考えるからだ。
そもそもノウハウは、アイディア自体にあるのではなく、 そのアイディアを具現化できる「人」にこそあるのだと思う。